呪われた都と驚きの由来! お彼岸の目的とは!?

日本の風物詩のお彼岸の時期ですが

ことの起こりはとある一人の人物のためだけに始まった

7日間休む間もなく昼夜問わず読経をする行事であった

ということはご存知でしょうか?

 

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お彼岸の時期はいつ?

秋のお彼岸は9月20日から26日までの7日間をさします。

 

春のお彼岸は3月18日から24日までとなっています。

 

秋のお彼岸は秋分の日を4日目として前3日後3日となっています。

 

春のお彼岸では春分の日を4日目として同じく前3日と後3日です。

 

お彼岸の初日は彼岸の入り、最終の日をお彼岸明け

もしくははしりくちと呼ばれています。

 

ちなみに春分と秋分の日の特徴として

昼と夜の長さが一緒になるというものがあります。

 

お彼岸とは?

日本独自の行事であり、

同じ仏教であるインドや中国では行われていません。

 

色々な迷いや煩悩のある現実の世界を此岸(しがん)と呼ぶのに対し、

対になる向こう側・・・悟りの境地=極楽浄土の事を言います。

 

お彼岸は春分の日と秋分の日を間に挟み、

それぞれ春と秋で年間2回ありますが

春のお彼岸はそのままお彼岸

秋のお彼岸は秋彼岸とされています。

 

双方ともに先祖供養を行うものとされています。

 

迎え火や送り火をする風習が残る地域もあるそうです。

 

寺院に参拝して、僧侶の読経とともにご先祖様の冥福を祈り、

法話を聞いて・・・という、一連の行事を

彼岸会(ひがんえ)」と言います。

 

ちなみに国民祝日に関する法律では

春分の日は自然を讃え、生物を慈しむ日となっています。

 

また、秋分の日では先祖を敬い亡くなった人を偲ぶ日とされています。

 

ちなみに偲ぶですので、忍ぶではありませんよ?

 

偲ぶは懐かしむという意味で、

忍ぶは我慢するとか人目を避けるとなりますので、

先祖の目を避ける、などということになりかねません。

 

お彼岸の法要の起源

もともとは、あるひとりの人の霊魂を鎮めるための行事であった

とされています。

 

事の起こりは日本後紀、延暦二十五年(806年)2月の記録に、

「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』

崇道(すどう)天皇のために転読させた」とあり、

これが日本の歴史上最初のお彼岸法要の記録です!

 

転読とは、経本(巻物)を1巻1巻、正面に広げて読む事で、

普通より効果・ありがたさがさらによくなるものです。

 

ところでこの聞きなれないお名前の天皇をご存知ですか?

 

崇道(すどう)天皇とは??

この崇道天皇という名前、実は歴代天皇の系図のどこにもありません!

 

崇道天皇・・・桓武天皇の弟の早良(さわら)親王です。

 

そして以前当ブログで紹介しました菅原道真公を含め、

平将門崇徳天皇の3名を日本三大怨霊としています。

 

そしてご存知の通りこの早良親王も

この3人に負けず劣らずの大怨霊とされています。

 

崇道天皇が大怨霊となった経緯

長岡京を造営し、延暦三年(748年)に、

桓武天皇がまだ造営途中の長岡京への遷都を強行していた頃・・・。

 

当時は光仁天皇の遺言で、

皇太子には桓武天皇の弟・早良親王が立っていました。

 

しかし当然のことながら桓武天皇としては

息子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)に後を継がせたい

と思っていました。

 

親としては当然のことではありますが、悲劇はここから始まります。

 

そんな折、奇しくも「新都の造営長官が暗殺される」という

大きな事件が起こります。

 

暗殺されてしまったのは桓武天皇が大事にしていた部下で

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)といいます。

 

名前を見れば分かりますが、当時有名なかの藤原一族の人です。

 

犯人探しを始めたところ有力候補として名が挙がったのが

当時、藤原一族と対立していた大伴一族とその関係者たち!

 

そして大伴一族の背後には光仁天皇の遺言で、

皇太子に指名されていた桓武天皇の弟・早良親王!

 

今の世の中では許されないことですが、

桓武天皇は問答無用で弟の早良親王から

皇太子の身分を剥奪、寺へと幽閉してしまいます。

 

幽閉された早良親王は何を考えたのか無実の訴えのため

断食を行い抗議を始めました。

 

当然、陥れるための疑いによるものであるため、

事件の疑いが晴れるわけもなく早良親王は

淡路島へと流刑になってしまいます。

 

ところが無実の訴えからずっと食事をしていなかったため

淡路島へとたどり着く前に早良親王は亡くなってしまいます。

 

弟の早良親王亡き後、兄の桓武天皇は

息子の安殿(あて)親王を皇太子にしてしまいます。

 

しかし、騒動から3年の月日がたったある日・・・

 

何が起こったのか?

延暦七年(788年)に、桓武天皇の夫人

藤原旅子が亡くなったことから恐怖が始まります。

 

すぐあとには妃のうちのひとりが、翌年には母、高野新笠が、

さらにその翌年、延暦九年には皇后と妃の二人が亡くなりました。

 

そしてダメ押しのように苦労して皇太子に立てた

息子の安殿親王まで病気になってしまいます。

 

こうなるともう桓武天皇、次は自分か!と恐怖におののく毎日です。

 

そんな中にあってか淡路島にある早良親王のお墓のまわりに

堀を張り巡らして、怨霊が外に出ないようにします!

 

ええ、効果などあるわけがありません。

 

さらに運の悪いことになんと飢饉・天然痘が都を襲い

桓武天皇はできあがって間もいない長岡京を捨てることとなります。

 

都を捨てたその後・・・

今度は、風水・占い・迷信・・・ありとあらゆる物を駆使して、

東方に「青龍=川」があり、

西方に「白虎=大路」があり、

南方に「朱雀=池」があり、

北方に「玄武=山」がある。

 

四神、四つの聖獣に守られた

完璧に怨霊を防げる土地に都を遷すこととなります。

 

そして長岡京の代わりとなる都、

現在の京都に「平安京」を用意します!

 

さらに、怨霊には荒ぶる神をあてがってしまえ!ということで

スサノヲノミコトを祀った四つの大将軍神社を都の東西南北に配置し、

上御霊神社と下御霊神社に早良天皇自身を祀り、

鬼門とされる北東には、

幸神社(さいのかみのやしろ)・上賀茂神社・下鴨神社・貴船神社

がたてまつられました!

 

そして仕上げに早良親王の鎮魂を願って、

一応、天皇になったという想定で、「崇道天皇」という追号を送ります。

 

そして冒頭で書かせていただきましたように

7日間の昼夜を問わずの読経となり、

怨霊問題が解決へと繋がります。

 

昔から怨霊となるにはそれなりの理由があり、

有名な人でなくともそういった怪談がある辺り

人の恨みとは恐ろしいものですね・・・。

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