京都・宇治市の世界遺産!平等院の歴史!

先日、京都・宇治川で鵜飼ウミウ2世が

初泳ぎをしていた宇治市ですが、

2012年から破損箇所などの補修工事が

56年ぶりに行われていました

世界遺産に登録されています、平等院は鳳凰堂。

 

2014年9月の8日付けで2年をかけた修繕工事の終了に伴い

平等院鳳凰堂を覆っていた覆いがすべて取り払われました。

 

これにより覆いがかぶさっていたことで不恰好になっていた鳳凰堂が

本来の堂々たる姿で観光客を迎えてくれるようになりました!!

 

ただし、本格稼動は10月1日からする。

 

ということで発表がありました!

 

それでは鳳凰堂の観光復帰にあわせて、平等院及び鳳凰堂の成立ちと

それぞれ平等院全域及び鳳凰堂の見所の紹介です!

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平等院鳳凰堂の歴史

まず平等院のある京都府南部、宇治市という地域は

平安時代には当時の貴族が別荘地として利用していたのです。

 

普段皆さんが観光に脚を運ぶ平等院の形となったのは1052年の事で

鳳凰堂は1053年に当時は阿弥陀堂という名称として設立された

という話だそうで、それまではどうだったかというと・・・

 

平等院鳳凰堂建造までの流れ

西暦900年代の後半、9世紀末の頃当時の左大臣であった

嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)

嵯峨天皇を父に持つ12番目の男子な彼ですが、源融を初代として

そこからの流れを嵯峨源氏融流とすることとなる一族へとなります。

 

そんな彼、源融によって立てられた後、宇多天皇へ譲渡され

さらに宇多天皇の孫の源重信のものとなり、

源重信から次が所有者として有名な藤原道長へと繋がります。

 

ちなみに平等院が別荘とされたのは

藤原道長の宇治殿とされたことによるものであり、

1027年に藤原道長が糖尿病で病死した後は

道長の子供である藤原頼通により別荘から寺院へと改められてます。

 

創建時の本堂は、現在の鳳凰堂の内部ではなく

鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあって

本尊も現在の阿弥陀如来ではなく、大日如来を本尊としていました

 

どういった理由で大日如来から阿弥陀如来に変わったのでしょう?

 

現在の体系とされたのは藤原頼通に引き継がれた翌年

1053年に当時の名前で阿弥陀堂という名称で

現在で言うところの鳳凰堂が建造されています。

 

阿弥陀堂って言うぐらいだから

最初から阿弥陀如来のために建てたのだろうけど

もしかしたら阿弥陀如来ではなく、大日如来が鎮座して・・・

なんて可能性もあったのかも?

 

鳳凰堂の建造目的

西方極楽浄土をこの世に出現せしめることを目的として

当時の名称は先にも触れましたが阿弥陀堂として建造されました!

 

また、鳳凰堂とその周囲、四方は観無量寿経の所説に基づき

西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想、

特定の対象、すなわち阿弥陀如来に心を集中させるために造られた

とされ鳳凰堂とその周囲は浄土式庭園とされています!

 

 平等院(鳳凰堂以外で)の見所

天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院

こちらで管理が行われています。

 

平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、

1681年の寺社奉行の裁定によるものですが、

浄土院明応年間(1492年 – 1501年)

最勝院承応3年(1654年)の創始であり、

それぞれ違った「平等院」をもっているので、

話を聞いてみるとよりいっそう観光が色鮮やかになりますよ!

 

古くからのもののため多くの堂塔が紛失されてしまっており、

詳細な位置が不明なものが多数あるのですが

存在していたということだけでも知っていると、

観光時に諸行無常の侘び寂び

または歴史の爪あとを感じられるかと思います。

 

本堂と懺法堂

本堂は宇治川の近くに、

懺法堂は本堂の南にあったとされています。

こちらには宇治川に突出して釣殿があり、

宇治川から直接舟をつけることが出来たようです。

また、釣殿と本堂を結んでいる廊がありました。

 

小御所

鳳凰堂の東の池を挟んだ対岸にあったとされています。

 

法華堂

頼通により建てられたという記録のみとなっているため、

正確な位置は不明です。

 

多宝塔

頼通の娘で後冷泉天皇皇后となる四条宮寛子により

鳳凰堂から南東に建造されたものです。

現在は寺域外とされ、公園とされてしまった敷地より塔の遺構が検出されています。

 

五大堂

頼通の三男であり、右大臣であった藤原師実により立てられた

という記録のみであり、当時の建造位置は不明とされています。

 

不動堂

頼通の養子で右大臣を勤めた藤原師房により建造されています。

配置としては境内の西南の隅にあったとされています。

 

経蔵(宝蔵)

代々続く藤原氏の重宝が納められていた蔵。

正確な位置は現在のところ不明、だって財産の隠し場所ですからね?

別名、宇治の経蔵として摂政家として

権威の象徴とされていた建物です!

 

当時は釣を楽しみながら気が向けば舟を出して宇治川で過ごすと

なんとも優雅で風流な生活が営われていたようですね!

 

四季折々、景観が日ごとに変わる川面の

風景を楽しみながら過ごすなんて贅沢、

現代の日本では全く考えられませんね・・・。

 

鳳凰堂の見所

まず鳳凰堂は毎日20「人」まで限定で内部の見学が許されています。
組ではなく人数となっているので注意してください!

見学料がいくらか取られますが、安いものではないでしょうか?

 

建造当時は阿弥陀堂、もしくは御堂と呼ばれていた鳳凰堂ですが、

まずは本尊の阿弥陀如来像これははずせませんね!

 

阿弥陀如来を迎えるために建てられたお堂ですから!

 

次に鳳凰堂の屋根に飾られている鳳凰の像

こちらは現在複製が掲げられていますが、

オリジナルは1041年に作られ

現在、鳳翔館に収蔵されており、

元は現在と変わらぬ位置に飾られていたようです。

 

実は鳳凰堂が10円の表で、

鳳凰は一万円札の裏面で見ることが出来たりします!

 

何気ないところであっても日本の重要文化財に触れることが出来る!

国として長い歴史を持てばこそ、すばらしいことですよね!




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